高橋大地Daichi Takahashi@Daichi_news
「そして、NHKをやめた」「ごめんなさい」
東日本大震災の時にヘリから津波の映像を撮影したカメラマンがその後、NHKを辞めたのは知っていた。言葉にはできない思いがあるのだろうと思っていた。震災から10年、その気持ちをこうして知ることができた。多くの方に読んでほしい
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ツイートに対するネットの反応
人々の営みや願いが目の前で破壊されていく姿を『見てしまった』という十字架。その後の記者の進んだ道。良い記事だった。ぜひ読んでほしい。
災害時に報道ヘリが飛ぶことを中傷するtweetがあるけれど、撮る人間は決して面白半分なのではない。当事者の痛切な思いを受け止めて、そこにいるのだ。
こういうの読むとマスコミ関係者を簡単に「ゴミ」と蔑むのが憚られてくる。いや、どんな人だって簡単に何らかのレッテルを貼って蔑んではいけないのだけど。
L.A.S.🇯🇵 (Leaf, Aero, and Snow…)@leafaerosnow
「ごめんなさい」と言える「良識」があるからこそ、想像だにできない相当なものを背負って生きているんだろう……
「これだからマスコミは」というのを裏付けてしまいかねない関係者の言動もあるだけに、よけいに背負ったものが際立つ。あなや。
震災当時を鮮明に思い出した。
地元の新潟でもかなりの揺れでテレビで事態の深刻さを知ることができた。街全体が津波に飲み込まれていく様は大きな衝撃を与えた。カメラマンにもいろんな思いがあると思うがこの世にとって意味のある仕事であったということだけ伝わったらいいな。
現地で報道した側の想い。
『見てしまった十字架を背負った』
災害が起こる度に思う。
災害報道の現地取材班はNHKのみにしたらどうでしょう。必要な場合のみ民放からも手を借りる。映像、情報は各局で共有。
報道ヘリが多いと地上での捜索の邪魔になるし、当時ヘリも足りなかったと聞くから。
この中継はリアルタイムで観ていた。人が呑まれる瞬間にカメラがフレーム外に首を振るさまに、人間味を感じていた。あれはいかにも日本的な判断だと思うのだが、あれでよいのだとも思う。
「人が巻き込まれる瞬間などが生中継で映り込むことがないよう、画面のアップを極力避けるよう意識した」
こういう人たちのおかげであの当時の情報って伝わってたんだね
内容見たけど割とショッキングな部分もあるのでメンタルが落ち着いているときに読みましょう
その映像を、六本木の地下の編集スタジオで余震のたびに地上に飛び出しながら、呆然として見続けていました。noteを拝読しながらコトバがありません。ご紹介ありがとうございました。
蒔野 靖弘 『ばくおん!!』スピンオフのシリーズ連載ちう@unilabo
この時の話と似たような状況の番組を
当時見た
東松島基地(矢本)の基地も津波に遭い
そこに当然のように配備された
戦闘機やヘリも流され隊員達も足止めを喰らった
自分たちが空を飛ぶ仕事なのに
助けに行けなくて悔しくて
泣きながらインタビューに答えてた隊員
今でも忘れ無い
この文を紹介してもらい有り難い。そして胸が苦しくなった。
あの年、沢山の動画がYouTubeにもアップされたが、とても見られなかった。
被災地に住んでなくともPTSDに近い人は沢山居ただろうが、前触れもなく番組に激烈な映像を度々差し込んでくる姿勢に「皆様の・・」放送への不信を大きくした。
衝撃のnote記事。読み始めたとたん胸のざわざわ、動悸が止まらない。ざっと雑に読んでしまったけど、落ち着いて、今夜またもう一度ゆっくり向き合ってみる_🖋
あの時のNHKの映像はものすごく覚えている。私もすぐに災害対応に入ったので生中継が始まった瞬間だけだけれど…撮影されたカメラマンの方のお一人は辞められていたのね…
ニセ梶原康弘@そろそろ新作クランクインします@kaji_dasreich
「見てしまった十字架」という言葉の重さ。見たことに罪はないのに、助けられず撮影することしか出来なかったという自責の念を語るこの人ほどの気持ちを持って震災の地と向き合う政治家、真摯な想いでカメラを向けるマスコミが、今日本にどれほどいるのだろうか…
精神的に体力がある状態で読んでほしい。(画像も多めなので、共感能力が高い人にはつらいかと)
離れた私達がその映像を見て、信じたくない、真実なのか?、目を伏せる…様々な反応は、こうしたカメラマンが撮ってくれているからだと改めて感謝したし、誰しもができることでもない。
当時、このヘリに乗ってる人たちの心が壊れてしまうんじゃないかと思うほど凄まじい映像でした
「ごめんなさい、ごめんなさい」は画面越しに多くの人が感じたように思う
自分は当時青森に住んでいて東北各地で仕事をしてた。
11日はたまたま前日か前々日に福岡に帰っていた。
仕事仲間の東北の人々に申し訳なく思いながらも戻るのが怖かった。
少しして戻った時も余震は当たり前。新幹線が止まり閉じ込められた事も。
当時は自分だけ安全圏に居てごめんと思ったりもした
はからずも関わることになってしまった者の想い。あの時は、未曾有の災害を目の前にして気持ちが混乱する中、報道者として考えられる精一杯のことをされたと思います。
どうぞ、これからも想いを伝えていってほしいと思います。
この時の放送は見ていた。人がのみ込まれるのも見た。きっとこの先放送されることはないだろうけれど。
雲仙普賢岳の火砕流の時、灰で真っ白になり焦げた消防服のまま煙の中から出てきた人も見た。亡くなられた方だと思う。その場所で自分の目で見た光景でなくても、一生忘れない。
三浦たくよう🙂改善実務26年プランナー:事業・WEBサイト・ECビジネス・ブランド・営業他@tkuy
報道と人命救助のジレンマを考えるとき、常に思い出すのはこの写真。
第3回 ピュリツァー賞が与えた影響
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