何故この人のお顔からは「良い事をやっているぞ」みたいな浮ついたものが漂わないのだろうと思っていたら、
救助や復旧作業などをせずにこんな事をしていて良いのかという葛藤があり、師匠に尋ねたら「何も出来ない無力さを学びんできなさい」と。
そうして、申し訳ない悲痛な思いで祈ったのだと。 https://t.co/bumt3PVUey
ツイートに対するネットの反応
今まで生物的本能(煩悩とする)に翻弄されて生きるのも一興だと思っていたが理性を以てそれに拠って生きていくのが人間として肝要なのではと思った時に、今まで古い文化だとしか認識していなかった宗教及び信仰というは考えることを止めないことに於いて尊いものなのだなと気付いた
何も出来ないも何も
それこそ家族に何もしてあげられなかった遺族からしたら有り難い気持ちになったと思うんですわ
基本無宗教な俺ですらこの人は真の意味で尊いと思いますから
その姿に何を見出すのか、自分の中にどんな思いが湧いてくるのかは、その時の自分の有り様、内面を現しているのであって、それが良いとか悪いとかと言う話ではないのだろう。
10年前、今、10年後では全く違うかも知れない。
■何も出来ない無力さを…
無力でも無いです。空気を感じて傷とは違う治りにくい心に傷を負い、自分なりの言葉で曲げずに誰かに伝えて下さるなら、今のメディアより本物が歴史に残せます。スポンサーの顔色見ながら報道するニュースにはもう疲れるばかりです。 #言霊
究極の自己満だって本人もわかってるからだと思う。
そりゃ死んだ人間に祈るよりボランティアの一つでもしたほうが人のためにはなるからね。
そう言うのがきちんとわかった上でそれでもやってるから変に驕らないんだと思う。
このツイートの引用で触れるのはどうかと思ったがそのまま投稿する。ニュース番組で何らかの被害を報じるとき、最後アナウンサーが「私たちは弱者に寄り添ってます」みたいな珍妙なキメ顔作る演技、あれが凄く苦手。あざと過ぎて気持ち悪い。
この写真もこの方のツイートも、とても考えさせられる。
震災10年の報道に表面的とか普段は忘れているのに、などのご意見があるのも事実。報じておしまい、とか自分が何か言ったって満足してるケースもあるだろうな…
「何もできないことを学ぶ」
この言葉をもう一度心に刻みたい。
私もおごることなく、日々のつとめを「ここで私の非力にまるごと向き合わせていただきながら、それでも一個一個誠実に全力で事にあたらせていただきます」という気持ちで実行させていただこうと思います。それがそのまま自らの修行なのですね。
「何も出来ない無力さを学びんできなさい」
無力だからネガティブってわけでなく自分を知る事で何ができるかっていう事が最も大事だと思っているので。
奥深い事だけど真心や謙虚に通じる基本だから現代足らないものだと本当に思う。
拝借🙏
上手く言えないが、寄付行為、ボランティア等どうしても偽善だと心の何処かで思えてしまう醜さというか…逆に直接手を差し伸べずに祈るだけなら偽善ではないのか、本当に役に立っているのか…どちらも心の内にあるんだろうけど真剣に祈ってくれている姿勢が伝われば、ただただ涙が溢れてくる💦
10年前この映像を見て、宗教者の行為が死者のみならず生者を救う事を知った。そして今日、それは宗教者が達観し高みに居るからではなく、自らも激しい葛藤と苦闘の中にあるからだと知った。
学んできなさい?
つまり自分の勉強のため“だけ”ですか?
自分の知ってる元ヤンのお兄さんはモトクロスバイクでパンを運んだよ?何も出来ないなら行くこともなかろうに。
諸行無常という言葉があるように
空という概念が仏教にあるわけで、このお坊さんと師匠は修行僧として恐ろしいほどに高潔
自分は仏教高に通ってたけど、いい坊さんから、天台宗に駄々乗りの生臭もいた。
仏教から学ぶことは多いです。
初めて「聖職者」を見た気がします。
雪の舞い散る中、素足に草履で祈りを捧げて……
どこぞの生臭坊主とは比較にもならない。
この方に如来様(で、いいのかな?)の加護を。
そして亡くなられた方々に鎮魂の祈りを。
このお坊さんとは別の被災地の方が「俺は坊主なのだ」と津波に飲まれた街に経を唱えたという話も思い出す
この写真の小原さんのように絵になる方ではなかったけど、自分のできること、すべきことに向き合ってたんやろね
長雨🍀外出自粛要請に従い自室ロックダウン中🍰🍜@long_rain
この有名なお坊様、草鞋を直履きで足袋はしてないんですよね。雪が降る三月の東北で。一応、脚絆はしてても素足の寒さには敵わない筈。怪我防止に足袋ぐらいしてほしいけど、被災者や遭難者を想うと寒さも怪我も平気だったのかも。些細だけどお坊様のお人柄が窺える部分です。
救助や復興に参加できる人はまだやましさにとらわれずに済むだろうね。それほどまでに日本人に傷を刻みつける出来事だった。けれど、何もできないことを自覚して、自分の身体に鞭打って祈ってくれる人も尊いよ。
何もできない
本当にそうだろうか?
と自分に対して
思い続けて生きてきた10年
震災が転期であったことは
確実でしたね
ます、自分が無力であることを受け入れることから始まった
ほとんどは、やってるフリ、相手のためという言い訳付きのやってるフリ
僕の〇〇してみたい が嫌いな理由